ひと月に10冊くらい本を買うことがあって、講演会での紹介だったり、別の本からの参照だったり、いろいろですが、興味を持つとまずはAmazonで検索して、説明文読んで、気に入れば購入。最初の検索で見た本と同じ著者の、別の本になることもあります。興味を持ったテーマの源流に近づくと、どうしても手に入れる本の数が増えていきます。(特に哲学の類は、遡って行くと取り留めなく数が増えてしまいます。)
過去に、何人か、「私は本を読みません」という人に会いました。(今までで2人)
理由は、忘れましたが、何から知識を得ているのか不思議でした。私は、本を読みます。
沢山買ってしまう原因の一つは、Amazonが日常化したからです。原因の一つというより、それに尽きます。便利になった分、出費が嵩みます。
それで買った本のうち、最初から最後まで読み通すのは、半数にも満たない。良いと思って買った本の読み方ですが、まず一つ目は、目次を見て一番心惹かれる項目のところから読み始めます。その項目からだけでは、よく解らない時は遡って前の項目から読み直します。二つ目は、最初から順番に読むやり方です。三つ目は、解説を先に読むやり方です。いずれにしても、途中で読まなくなる本は、結構多いのです。それは、それ以上読むだけの興味を失ったってことで、限りある時間の有効利用だから、悪くないと思っています。
今日思ったのは、人との関わりがまるで同じということです。
共通の話題、共有できることが多い、気が合う、何でもいいのですが、何かの取っ掛かりで、しばらくは関りを持ちますが、ずっと続いて関わって行く人は、意外に少ない。いつの間にか音信普通になっている人の方が、圧倒的に多い。例えば年賀状のやり取り一つとっても、受け取ったら必ず返事を出している間は、総数が減ることは無いのですが、ある時から限定的に返事を出すように変えたら、一気にいただく数が減りました。
失われた時を取り戻すことは不可能なので、時間をどう使うか、よく考えないといけない。(考えているだけで動かないのは、もっとダメですが)
今の時世を見ると余計に、「時間」を思わずにはいられない。
何を読むのか(本)、誰と付き合うのか(人)、「本と人」どちらからも影響を受けるし、人には影響を与えてしまう。同じ影響力なら良い方向のベクトルです。
本は古本として売ったりできますし、捨ててしまえばそこで終わりにできます。が、人は売ったり、捨てたりできないのが、二つの違い。人には感情や心がある。これ当たり前ですが、唯物論を唱える人には当たり前じゃないんだろうな。