sakaname’s blog

日頃のランニングやサイクリング、トレーニングをメインに、今読んでる本の事など綴ります。

#221 トレイルランニング-1

 トレイルランニングの中でも、距離100マイルの大会はステータスが高く、目標にしているトレラン好きの方は多いと思います。私は現在までに100マイルトレランに3回出ていて、やはりとても魅力的で楽しかったので、そのことについて少し書いてみます。といっても随分前のことなので、何か参考になることがあるかはわかりませんが。

 100マイルのトレイルランニングに初めて出たのは、1998年のエンジェルスクレスト100というカリフォルニア州の大会でした。この大会には2000年にもう一回出ています。そしてウエスタンステーツ100に一回、合わせて3回です。

 出場にあたり、まずは100マイル=160kmを実際に走っておきたかったので、当時、東京の学芸大学のキャンパス内で行われていた24時間走にエントリーしました。それまで本格的なウルトラマラソンの経験はなかったから。

 1997年のレースアクロスアメリカの後、自転車からは一旦離れてランニング主体の活動に変えようと思っていました。そんな折、アメリカ在住のアキ・イノウエさんから、100マイルのトレイルランニングの話しを聞かされて、次のターゲットは「これだ!」と直感。アメリカでは著明な100マイルトレランの4つの大会を、その年度内に全て完走することで、「グランドスラム」という称号が得られるのを知って、そこを目指しても面白いかなと思っていました。

 ウルトラマラソンの経験はほとんどないところからの挑戦でしたが、山の中を走るトレランに関しては、トライアスロンの練習の一環でやっていました。その時に参考にしていた本がありました。「ランニング登山」(下嶋 溪 著)という本です。これも「ゆっくり走れば速くなる」と同様、私のバイブルです。今手に入るかわかりませんが、1986年発行とおよそ40年前のことなのに、今読み返しても参考になることがとても多いです。

ランニング登山

ランニング登山

ランニング登山84・85ページ

ランニング登山84・85ページ

当面、消費者としては本質を見きわめ、自分のクセ、使用目的、フィーリング(これが重要)に合ったものを選択するしかない。

ランニング登山85ページから引用

 この一文は、最適なランニングシューズとは?というランナーの迷い点をついていて大変面白いと思います。この著者がワラーチを知っていたら、おそらく試していただろうと、勝手に妄想しています。

 学芸大24時間走では、200km超えたところで止めました。22時間くらい?まだ時間が残っていましたが、この後、東京から名古屋へ新幹線で帰るのに、ちょっとしんどいと思ったので、早めに切り上げました。学芸大の最寄り駅(国分寺か国立)の近くで立ち食いうどんを食べて、東京駅まで中央線で向かいました。初めての200km超えの走りは、新幹線に乗るところまでは良かったのですが、名古屋に着いて座席から立ち上がる時に一苦労しました。そして翌日の朝刊配達は、体が固まってしまいきつかったです。ウルトラマラソン、なめてました・・・

<続きは、また>

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#220 レースアクロスアメリカへの道筋-3

<レースアクロスアメリカへの道筋-2>からの続き

高校時代の陸上部の話しから。

 陸上部では1500mを中心にしていたが、成績は支部大会の予選落ち程度で、まるっきり振るわなかった。というか、自転車のトレーニングのために走っていたから、心肺機能の向上が出来ればOK。鉄アレイの筋トレや、サーキットトレーニング、縄跳びなど、自分でトレーニングプログラムを作成するので、その類の本はかなり揃えて勉強した。

 高校時代は、陸上部の部活をしつつ、自転車に乗るのはもっぱらサイクリングで、どちらかというと旅の要素が強く、レースに出ることはなかった。2年生の夏休みに北海道へサイクリングに行ったことが、その後の自分の活動に大きく影響する。北海道の主に南側半分くらいを2週間で周り、宿泊は全てユースホステル利用で荷物を少なくし、今で言うところのファーストラン。その途上の新冠ユースホステル掲示板で何気なく見た「牧場バイト」の案内。それが高校卒業後の進路に繋がっていく。シンボリ牧場で働くことになるとは、その時は想像もしていなかった。ともあれ、この北海道自転車旅が日本一周自転車旅の起点になったのは間違いない。

 シンボリ牧場で働くことになったいきさつは、またの機会にして、日本一周のさわりのところを簡単に。

 日本一周する時に、27インチタイヤのキャンピング仕様自転車をオーダーメイドで作ったのは、前述のサイクルスポーツ誌掲載、デイビッド氏の記事から始まっている。東叡社の水色のキャンピング自転車、荷物を載せるキャリアも特注で、前後左右に四つのパニアバック(これも当時主流の帆布製では無く、デュポン製ケブラー繊維の軽量バックをチョイス)、荷物を満載にすると30kgくらいにはなっていた。時には、お米や日本酒の一升瓶を荷台に括り付け、生活用具一式、テントや寝袋も持って、旅していた。国道と舗装路中心ではあったが、舗装してないオフロードも平気で走っていた。(今流行りのグラベルってこんな感じ?)それでも、日に100kmを下回ることは、ほぼ無かった。期間にして一年半、旅の途中、北海道で酪農牧場の住み込みバイト、沖縄でサトウキビ刈りの住み込みバイトをしつつ、次は世界一周だなって漠然と思っていた。途中で出会う、僕と似たようなサイクリストの多くは、海外志向だったし、自分ももっと大きなフィールドに出てみたかった。

サトウキビ刈りは、沖縄県小浜島でやった。そこの製糖工場の寄宿舎に寝泊まりして、担当のサトウキビ畑に出勤する毎日、2月から3月にかけての1か月半程の季節労働者。製糖工場の食堂で朝晩の食事、お昼はサトウキビ畑の農家の人(大久 文三さんという方で、小浜島で1番目か2番目の規模の農家)が、お弁当持って来てくれる。夜は毎晩泡盛で酒盛り、食堂のご飯は台湾人のおばちゃんが作っていた。いつもテーブルに置いてある、特製肉味噌が美味く、それだけで何膳もご飯おかわり。そんな日々に、たまの休日があって、その日は、繫華街のある石垣島へ渡った。サトウキビ刈りの寄宿舎仲間(ほとんどが旅人)からの情報で、メームイ製菓っていうところのチーズケーキが美味しいということで、ホールで買って食べて、小浜島へ戻る船までの待ち時間に、本屋で立ち読み。サイクリングの雑誌「月刊サイクルスポーツ」をパラパラと見ていたら、その中の記事に皆生トライアスロンのことが載っていた。この時は漠然と「チャレンジングなレースだな」くらいの気持ちで見ていた。ちょうど同じ時期に、宮古島、琵琶湖でもトライアスロンなるものが始まっていくのだが、自転車部門がやたら長い距離なのと、集団走行が禁止の個人タイムトライアルっていうところに惹きつけられた。後に競技としての自転車に進んでいくわけだが、当時、全日本クラスのエリート大会は別として、僕が出られるような一般向けの大抵の市民自転車レースは、距離が30kmくらいで、ゴールスプリントの力が試されるものばかり。それと集団で走るレースがほとんどでタイムトライアルは、トラック競技しか見つけられなかった。いつかは、一度くらいは、トライアスロンやってみたいと、ほんのちょっと思った。

(日本一周の時のことは、日記から抜粋しつつ、いずれまとめる予定。)

 

 日本一周の旅から帰り、旅の途中で出会った友人の幾人かは、世界に向けて旅立って行った。

 僕は、通りすがりの旅人でいることは、自分の進む道とはなんか違う気がして、根差していないというか、本質のところで、人との繋がりが浅いと思い始めていた。海外に行くにしても、腰を据えてひとところにいる方向へ、考え方が変わっていく。それがインドだった。これも偶然から。旅の途中、仙台で道中庵ユースホステルってところに泊まった時、同宿の男の人(山羊みたいなあごひげの人だった)の話、「インドに行くならヒンディー語を話さないとね」の一言が、頭の中にこびりつく。ヒンディー語はどこで覚えたら良いのか、探した。いくつかの選択肢のうち、東京外国語大学は入るのに受験勉強がいるので時間がかかる。最速で習得出来るのは、三鷹のアジア・アフリカ語学院一択。2年間履修のインド語科に入学し、再び学生になった。インド語科の入学生は5人だけ。他の中国語科とか、実用のあるところは10人以上いた。22歳になっていた僕は、将来はインドで何かやろうと、まじめに(1年目皆勤賞もらった)通った。渋谷の実家に住んでいたので、井の頭線で吉祥寺まで出てバスに乗り継いで通った。この2年間の学生期間にトライアスロンを始めることになる。それで、練習兼ねてロードバイクで通学したり、時にはランニングで20kmを通学ランしたり、帰りに高井戸の温水プールに寄って泳いだりし始める。卒業した高校が港区の田町にあったことから、その近所の港区スポーツセンターにトレーニングのためによく通っていた。ここは体育館の観覧席の周囲を回る1周180mのランニングコースがあり、LSDにはもってこいだったし、温水プールや筋トレのジムまで揃っていて、回数券を使って頻繫に利用していた。その土地勘があったからか、港区スポーツセンターの近くの居酒屋「うつみ」で長い間アルバイトさせてもらい、活動資金を貯めていく。トライアスロンのトレーニングしつつ、語学勉強もするという、今思うと、休む間もなく良く動いていた。ある一日を例にあげると、朝はランニングで学校へ約20km、昼過ぎに授業が終わり、帰りはバスと電車で田町へ。プールで泳いでから夕方6時から居酒屋でバイト。夜11時に帰宅。場合によっては帰ってから近所を走る。その頃のトップトライアスリートの一人、アメリカのスコット・モリーナのインタビュー記事「夜、バーで働いた後の夜中だろうが、納得行くまでランニングトレーニングをした。強くなりたい一心で」こんなような内容を覚えていて、それが励みになっていた。バイトが終わった後、23時半頃から走った時、スコット・モリーナと同化していた。

 

 インド語科でヒンディー語を学び、今後の進路を考える2年生時の夏休みに初めて海外へ行った。行先はアメリカ。目的はトライアスロンの大会出場。1カ月ほどの滞在中にバイク・ランのデュアスロン(その当時はバイアスロンと言った)1レース、トライアスロン2レースに出場。当時の国内メジャー大会(特に宮古島と琵琶湖)は、経験者でないと出るのが難しく、「出してもらえないのにどうやって経験積むんだ」と何とも言いようのない中途半端な環境にあった。トライアスロンアメリカが発祥の地、その本場アメリカでレースに出るのも有りかなと考え、情報収集に奔走。今ならインターネットでその場で検索だが、当時(1986年)は海外の雑誌しか思い当たる情報源がなく、早速本屋さんへ向かう。その頃住んでいた渋谷には、三省堂と大盛堂、紀伊国屋書店という大型書店があり、海外の雑誌を扱っていることは知っていた。その中の大盛堂(西武デパートの向かいにあった)はマニアックな雑誌も多く、関連するものを含め「トライアスロン」「トライアスリート」「ウルトラスポーツ」「アウトサイドマガジン」を購入、確か1冊1500円~2000円くらいしたと思う。レース情報からいくつかの大会をピックアップして、手紙でエントリー用紙を取り寄せた。きちんと返送してくれた(返信用切手は入れていたか覚えていない)大会パンフレットは、見ているだけで夢が膨らむ。その中で最も興味を惹かれたのが、「アラバマダブルアイアンマン」ハワイのアイアンマンの2倍の距離を走るレース。しかもスイムは海じゃなくて沼?池?のよう。いつか出てみたいレースの一つになった。(結局出ることはなかったが)

夏休み期間中で、バス移動可能な範囲で、いくつか候補を上げて、最終的に選んだのが、東海岸バーモント州「スティーマントライアスロン」(ハーフアイアンマン)、カナダモントリオールのバイク80km+ラン20kmのバイアスロンマサチューセッツ州ケープコッド「ケープコッドエンデュランストライアスロン」(アイアンマンディスタンス)。この3大会。トライアスロンが盛んに行われていたのは、カリフォルニア州サンディエゴ辺りの西海岸だったが、日程と大会の距離からこの3つに決めた。アイアンマンディスタンス(*トライアスロン発祥の地ハワイアイアンマンの距離:スイム3.9km・バイク180.2km・ラン42.195km)の大会にどうしても出たかったので、ケープコッドの大会を基点に計画、決定した。とは言え1カ月あまりの期間に過密なスケジュールだし、そもそもそれまでにトライアスロンの経験は、指宿トライアスロン大会(オリンピックディスタンスS1.5km・B40km・R10km、その頃でいうショート)しかないのに、やれると確信していた。妙な自信は、初レースの指宿での感覚由来。とっても偉そうに言うと、周りの経験者たちが凄い人たちと思っていたのに、案外そうでもなかったから。スイムでは出遅れたけど、バイクとランは追い抜くばかり、結果が9位。これなら俺行ける!と感じていた。

とは言っても、自転車はともかく、正式にフルマラソンを走ったことはなく(日本一周の途中、利尻島一周完歩53km?をほぼ走って4時間台で回った経験はあった)、スイムの4kmは未知の世界で、計画的な練習が必要だった。まずフルマラソン大会にエントリー(つくばマラソン)、高井戸スイミングに入会、柏バイアスロンにもエントリーした。語学院での勉強も有り、毎日充実した日々を送る。

ゆっくり走れば速くなる

ゆっくり走れば速くなる

トライアスロンを本格的に始めた頃のバイブル。後のマフェトン理論に通じるものがある。

<続く>

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#219 レースアクロスアメリカへの道筋-2

<レースアクロスアメリカへの道筋-1>からの続き

道筋-2

「ロードレースの走法」まだ持っていた!

ロードレースの走法

ロードレースの走法

 この本は、自転車のプロショップ「ベロウ」で買ったような気がする。

 ヨーロッパのプロロードレーサーになるために、手掛かりを探していた。何でプロにこだわったかというと、そればっかりずっとやっていられると単純に考えていたから。当時日本のロードマンでは、宮田自転車所属の森幸春選手が有名で、それでもプロではなかったし、日本だとプロになるにはピストの競輪選手しかなかった。ピストじゃなくて、長い距離を乗りたかった。ヨーロッパしかなかった。エディ・メルクス(飛躍し過ぎ)のように。エディ・メルクス選手、ベルギー人で、「人食い人種ハンニバル」があだ名。冬場にトラックで6日間レースとか、アワーレコードとか、オールマイティに強かった。

 

 高校受験も学力とか偏差値が基準じゃなかった。その高校に自転車競技部があるかどうかで受験した。その第一候補の法政二高に合格して入学金まで収めた。ここでもう一つの選択肢、自転車に関わる仕事としてメカニックになることも考えていた。自転車競技に関わりつつ海外へ行くのも良いな、くらいな感じで。メカニックの技術向上のため工業高校へ進学という道。これは東京工業大学付属高校という一択、相当難しいから受からないだろうと思っていたし、実際の試験問題(特に数学)は時間足りないし、難しいし、まず合格はないだろうと思っていた。それが、なぜか補欠で合格。結局こっちに入学することになった。ここには自転車競技部は無いが、自転車のトレーニングの一環として、陸上部に入った。水泳部とどっちにするか迷ったが、水泳の練習には馴染みがなく、陸上のほうがとっつきやすいということで。(既にトライアスロンへの暗示ではあった。)

 高校の部活は厳しいものを想像していたが、この学校の部活はかなり緩く、しかも人数が少なくて、2年生になったらいきなり部長になってしまった。それを良いことに、自分の欲しいトレーニング資材を予算要求したり、トレーニングメニューも全て自分で考えたり、好きにやることができた。先輩後輩の関係性がとても希薄な高校時代の部活動を経験した。

<続く>

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#218 疑問、好奇心、実験

「疑問、好奇心、実験」
 それって本当?それでいいの?という世間の常識とか、疑問に思うことはとりあえず、調べてみる。自分に関係することは特に。好奇心と言ってもいい。それで、違う気がすることは、まず試してみる。試すのは実験だから何かしらの結果が得られる。それで、より良いと思われることとか、方向性とかがわかる、もしくは考えるきっかけを与えてくれる。


 ずっとこんな感じで生きているから、整体院に来る方にも、そういった問いかけをさせてもらっている。
 もうじき80代という女性の方は、毎朝ヨーグルトを召し上がる。そして牛乳を飲んでいる。そうすると、お腹が緩くなると話されていたので、「それは好きだから召し上がっているんですか?」お腹が緩くなるのに続けているのは、よっぽど好きなんだと思って聞いてみた。「いや、乳製品はあんまり好きじゃないんです。」という答え。「では、何故毎日召し上がっているんですか?」とさらに聞いてみると、「体にいいとテレビで言っていたから」「カルシウムが足りないと骨が弱くなるでしょ?」


 以前の私なら「いや、そうじゃなくて」と否定から入っていたかもしれない。
 この方は元々知多半島の漁村で育っていて、子供の頃のおやつは煮干しだったとか、魚料理は、今でもよくやるし、魚を捌くのも普通に出来るという話しを伺っていたので、「好きなものがお魚だったら、そういったものからもカルシウムは摂れるし、乳製品が好みじゃないのなら、しばらくやめてはどうですか?」「それより、少し陽を浴びて外を歩くとカルシウムの吸収高まりますよ」と伝えてみた。


 牛乳が体によくないという人はいる。あれは牛の子供の飲むものだという。それもそうだな、とも思う。だけれども私は飲んでいる。それは好きだから。なるべく質の良いものを選んではいるが。そして、ヨーグルトは自家製を何年も続けて食べている。あと減塩は一切していない。もちろん塩は選んでいる。美味しく食べたいし、命をいただくことを雑にしたくないから。かといって完全無添加でもない。その辺は緩い。ちょっと前の言葉にすると「ファジー」に生きている。今のところ至って元気に楽しく生きている。

 今回は整体院での一つの例を綴ってみたが、こんなことの繰り返しで、無理してるなあ、と感じることがあれば、「疑問、好奇心、実験」の流れを意識すると、ずっと生きるのが楽になると思っています。

 しめ縄作りも、既存の概念を外してみたら、こんなのができました↓↓↓

手作りのしめ飾り

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#217 レースアクロスアメリカへの道筋-1

raam book

<レースアクロスアメリカへの道筋>

とても長い話しになるので、時間の流れが前後したり、横道に逸れたり、記憶が曖昧だったり、まとめるのがとても大変で、ずっと後回しになっていたことを、どっかで文章にして残すのが使命のような気がして、書き始めたのがこれです。

 

 今も出版している月刊サイクルスポーツ誌のだいぶ昔の記事(1980年代)から、話は始まる。いつ頃読んだのか記憶は曖昧で、多分中学2年あたりだと思う。それは、在住アメリカ人のデイビッド氏が書いたサイクリングの記事、北海道を自転車で旅する紀行文で、自転車で快走することが一番の旅の楽しみ、というような内容だった。彼は、

  • 荷物を少なくする(キャンプ道具を持たない)目的で、宿はユースホステルを利用する。
  • 午前中に距離を稼ぐため、朝早くから行動する。(これに対して、彼のコメント「同宿の日本人は何故、朝ゆっくりしているんだろう?」と疑問を投げかけていた。)
  • ロングツーリングでは26インチもしくは、650Bという太めのタイヤ装着が当たり前の時代に、27インチタイヤでスピード重視、快走するのが何より楽しいという考え。

この記事には、北海道の自然の素晴らしさや、温泉のことなど紀行文も含まれていたが、僕に響いたのは、自転車での快走、ロングライドの部分。デイビッド氏は「午前中に100km乗れば、一日に200km近くまで距離を延ばすのは簡単だ」と言っていた(と思う)。今(2023年)でこそ、割とポピュラーになっているロングライド、「ブルベ」みたいな感じだが、その頃(1980年頃)の日本では少数派だったと思う。

 

実際に北海道をサイクリングした高校二年の時、ユースホステルを利用した。デイビッド氏の考えそのままに。サイクリングの楽しみは、僕の場合「自転車を漕ぐこと」そのものが一番で、景色とか温泉とかその土地の名産品を食べるとかは、おまけみたいなものだった。今もそこは変わっていないので、室内で何時間もインドアトレーナーに乗っていても十分楽しい。

 

そもそも、小学生の時から自転車が好きだった。当時流行っていたのはセミドロップハンドルの電飾フラッシャーが付いた24インチくらいの車輪の5段変速自転車で、とても趣味に合わないような、子供だましみたいなのだった。父に連れられて西武デパートまで見に行った時も、その派手なセミドロップが並んでいたが、私が選んで買ってもらったのは、16インチの変速機なしの折り畳み自転車。「要、本当にこれでいいの?」と父に言われたが、そのシンプルなオレンジ色の自転車に乗っている人を見たことがなかったから、自分のためにそこに置いてあるぐらいな気分で、即決で買ってもらった。中学1年になるまでは、ずっとその16インチ折り畳み自転車に乗っていた。中学生になり友達の西田君と一緒にサイクリングに行くようになった時、西田君はブリヂストンのロードマンっていうドロップハンドルの自転車に乗っていて、26インチの車輪に10段変速、当然のようにそのスピードに付いて行けず。ここから本格的なスポーツバイクが欲しくなり、いろいろ調べるために前述のサイクルスポーツ誌を購読するようになった。始めはスポルティーフと呼ばれる快走型の自転車をセミオーダーで購入する。12万円くらいしたと思う。資金は貯金と親からのプレゼントで。27インチ、リア6段変速が出始めた頃で12段変速。センタープルブレーキ、バーエンドコントロールのライトブルーのオリジナルは、最高に格好良く、乗り心地も最高だった。ただ残念ながら作ってもらった自転車屋さん(渋谷にあったベロウ)の店先に置いておいたちょっとのすきに盗まれてしまった。作ってから2年経っていたかどうか。かなりショックだったが、結局この自転車は出てこなかった。で、そのスポルティーフに乗っていた中学生の頃は、青梅とか奥多摩方面に行くか、三浦半島へ行くか、長くてもだいたい100kmくらいまでだったかな。西田君ともう一人村松君(村松輪業という自転車屋さんの息子)と3人で行くことが多かった。2人とも身体能力が高くて、ついて行くのに必死だった覚えがある。そんな中スピードを上げて乗ることが楽しくなり、自分なりにどうやったら速くなれるのか考えるようなっていった。それで「ロードレースの走法」という本を買って(そのマニアックな本をどこで手に入れたか謎)研究し、本格的なトレーニングをその本に書かれていたことをメインに始めた。

<続く>

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#216 よくなる人

 うちの整体院には、体を治しにいろんな人がやってくる。腰が痛い、肩がこる、背中が痛い、首が回らない、膝が曲がらない、などなど。そういう人たちの中には、心と体は一体だから、心のケアが必要な場合か多々ある。その心のところを、そこを引き出すのに話しを聴く。相手の話しをひたすら聴く。その中によくなるヒントがある。


 メンタルが狂うとクリニック(医療機関)でなんかしら薬を与えられる。そうすると、多くの人は、自然な表情を失う。薬で感情をコントロールしているから。その人にとっていいか悪いか、私にはわからない。わかるのは、その無表情が周りにも影響していること。


 体と心を切り離した考え方では、根本治癒は難しい。
うちでの体のケアの中心は、循環を促すこと。血の流れを滞りなく動かすこと。それは脳にも良い影響を与える。脳=思考と捉えると、脳への良いアプローチが、心の問題にも関係してくる。

 1人の70代の女性は、お医者さんに自律神経失調症と言われた。元々は腰痛でうちに来ていた方。薬の常用を減らしたいと言っていた。3ヶ月のプラン、週に2回通ってもらった。薬に関してはお医者さんと相談してもらって。始めの2週間で少し笑ってもらえるようになった。食べたいものがない、食欲のない状態は続いていた。無表情だった顔から、笑顔を見ることができて、家族がその違いに気づいてくれて、声かけを沢山してくれた。そこから食欲が徐々に増えて、丁度3ヶ月、本人もスッキリした様子。今後は2週間に一度のメンテナンスケアになった。この間に向精神薬は半分からゼロに。こういうことが整体院で起きることを、多くの方に知ってもらいたい。

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#215 怪我からの復帰-2

タイトルは「怪我からの復帰」ですが、内容はトレーニングのコツです。

流動的にトレーニングを続けていく。見た目行き当たりばったりですが、「流れの方向」が間違っていなければ、必ず目的地に行きつきます。

設楽町ランニングコース脇の沢

設楽町ランニングコース脇の沢

例えれば、川の水の流れのように。源流の1滴の雫、あるいは湧水が流れて行く方向、それは地球上では高い方から低い方へ、と決まっています。けれど真っ直ぐ海に行くわけではなく、途中にクネクネ曲がりながら、滝があったり、岩があったり。支流に分かれたり、支流が合流したり。紆余曲折がありつつ河口にたどり着き、海に合わさります。1滴の雫が大海へ。

(涸れて地中に吸い込まれても、伏流水としてまたどこかから湧いてくるパターンもあり)身体はお休み(潜伏)・気持ちは継続(流れ続けている)

日々の変化も大きく動く時(滝のように)は、気付きますが、小さな変化(河口付近の緩い流れ)は気付きにくいものです。それでもどちらも流れているのですね。目的地(目標)に向かいつつ。

「今」と「その先」をつなぐ線。その向かう方向。直観と思考。この辺りを織り交ぜて、成長し続けるのが自分のトレーニングです。感覚重視なので一般化しにくいから、教えるのも難しいけれど、わかると故障からの復帰を速めてくれます。というか「怪我」を含めて自分があるので。

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櫻井要のオーストラリア横断日記