sakaname’s blog

日頃のランニングやサイクリング、トレーニングをメインに、今読んでる本の事など綴ります。

#220 レースアクロスアメリカへの道筋-3

<レースアクロスアメリカへの道筋-2>からの続き

高校時代の陸上部の話しから。

 陸上部では1500mを中心にしていたが、成績は支部大会の予選落ち程度で、まるっきり振るわなかった。というか、自転車のトレーニングのために走っていたから、心肺機能の向上が出来ればOK。鉄アレイの筋トレや、サーキットトレーニング、縄跳びなど、自分でトレーニングプログラムを作成するので、その類の本はかなり揃えて勉強した。

 高校時代は、陸上部の部活をしつつ、自転車に乗るのはもっぱらサイクリングで、どちらかというと旅の要素が強く、レースに出ることはなかった。2年生の夏休みに北海道へサイクリングに行ったことが、その後の自分の活動に大きく影響する。北海道の主に南側半分くらいを2週間で周り、宿泊は全てユースホステル利用で荷物を少なくし、今で言うところのファーストラン。その途上の新冠ユースホステル掲示板で何気なく見た「牧場バイト」の案内。それが高校卒業後の進路に繋がっていく。シンボリ牧場で働くことになるとは、その時は想像もしていなかった。ともあれ、この北海道自転車旅が日本一周自転車旅の起点になったのは間違いない。

 シンボリ牧場で働くことになったいきさつは、またの機会にして、日本一周のさわりのところを簡単に。

 日本一周する時に、27インチタイヤのキャンピング仕様自転車をオーダーメイドで作ったのは、前述のサイクルスポーツ誌掲載、デイビッド氏の記事から始まっている。東叡社の水色のキャンピング自転車、荷物を載せるキャリアも特注で、前後左右に四つのパニアバック(これも当時主流の帆布製では無く、デュポン製ケブラー繊維の軽量バックをチョイス)、荷物を満載にすると30kgくらいにはなっていた。時には、お米や日本酒の一升瓶を荷台に括り付け、生活用具一式、テントや寝袋も持って、旅していた。国道と舗装路中心ではあったが、舗装してないオフロードも平気で走っていた。(今流行りのグラベルってこんな感じ?)それでも、日に100kmを下回ることは、ほぼ無かった。期間にして一年半、旅の途中、北海道で酪農牧場の住み込みバイト、沖縄でサトウキビ刈りの住み込みバイトをしつつ、次は世界一周だなって漠然と思っていた。途中で出会う、僕と似たようなサイクリストの多くは、海外志向だったし、自分ももっと大きなフィールドに出てみたかった。

サトウキビ刈りは、沖縄県小浜島でやった。そこの製糖工場の寄宿舎に寝泊まりして、担当のサトウキビ畑に出勤する毎日、2月から3月にかけての1か月半程の季節労働者。製糖工場の食堂で朝晩の食事、お昼はサトウキビ畑の農家の人(大久 文三さんという方で、小浜島で1番目か2番目の規模の農家)が、お弁当持って来てくれる。夜は毎晩泡盛で酒盛り、食堂のご飯は台湾人のおばちゃんが作っていた。いつもテーブルに置いてある、特製肉味噌が美味く、それだけで何膳もご飯おかわり。そんな日々に、たまの休日があって、その日は、繫華街のある石垣島へ渡った。サトウキビ刈りの寄宿舎仲間(ほとんどが旅人)からの情報で、メームイ製菓っていうところのチーズケーキが美味しいということで、ホールで買って食べて、小浜島へ戻る船までの待ち時間に、本屋で立ち読み。サイクリングの雑誌「月刊サイクルスポーツ」をパラパラと見ていたら、その中の記事に皆生トライアスロンのことが載っていた。この時は漠然と「チャレンジングなレースだな」くらいの気持ちで見ていた。ちょうど同じ時期に、宮古島、琵琶湖でもトライアスロンなるものが始まっていくのだが、自転車部門がやたら長い距離なのと、集団走行が禁止の個人タイムトライアルっていうところに惹きつけられた。後に競技としての自転車に進んでいくわけだが、当時、全日本クラスのエリート大会は別として、僕が出られるような一般向けの大抵の市民自転車レースは、距離が30kmくらいで、ゴールスプリントの力が試されるものばかり。それと集団で走るレースがほとんどでタイムトライアルは、トラック競技しか見つけられなかった。いつかは、一度くらいは、トライアスロンやってみたいと、ほんのちょっと思った。

(日本一周の時のことは、日記から抜粋しつつ、いずれまとめる予定。)

 

 日本一周の旅から帰り、旅の途中で出会った友人の幾人かは、世界に向けて旅立って行った。

 僕は、通りすがりの旅人でいることは、自分の進む道とはなんか違う気がして、根差していないというか、本質のところで、人との繋がりが浅いと思い始めていた。海外に行くにしても、腰を据えてひとところにいる方向へ、考え方が変わっていく。それがインドだった。これも偶然から。旅の途中、仙台で道中庵ユースホステルってところに泊まった時、同宿の男の人(山羊みたいなあごひげの人だった)の話、「インドに行くならヒンディー語を話さないとね」の一言が、頭の中にこびりつく。ヒンディー語はどこで覚えたら良いのか、探した。いくつかの選択肢のうち、東京外国語大学は入るのに受験勉強がいるので時間がかかる。最速で習得出来るのは、三鷹のアジア・アフリカ語学院一択。2年間履修のインド語科に入学し、再び学生になった。インド語科の入学生は5人だけ。他の中国語科とか、実用のあるところは10人以上いた。22歳になっていた僕は、将来はインドで何かやろうと、まじめに(1年目皆勤賞もらった)通った。渋谷の実家に住んでいたので、井の頭線で吉祥寺まで出てバスに乗り継いで通った。この2年間の学生期間にトライアスロンを始めることになる。それで、練習兼ねてロードバイクで通学したり、時にはランニングで20kmを通学ランしたり、帰りに高井戸の温水プールに寄って泳いだりし始める。卒業した高校が港区の田町にあったことから、その近所の港区スポーツセンターにトレーニングのためによく通っていた。ここは体育館の観覧席の周囲を回る1周180mのランニングコースがあり、LSDにはもってこいだったし、温水プールや筋トレのジムまで揃っていて、回数券を使って頻繫に利用していた。その土地勘があったからか、港区スポーツセンターの近くの居酒屋「うつみ」で長い間アルバイトさせてもらい、活動資金を貯めていく。トライアスロンのトレーニングしつつ、語学勉強もするという、今思うと、休む間もなく良く動いていた。ある一日を例にあげると、朝はランニングで学校へ約20km、昼過ぎに授業が終わり、帰りはバスと電車で田町へ。プールで泳いでから夕方6時から居酒屋でバイト。夜11時に帰宅。場合によっては帰ってから近所を走る。その頃のトップトライアスリートの一人、アメリカのスコット・モリーナのインタビュー記事「夜、バーで働いた後の夜中だろうが、納得行くまでランニングトレーニングをした。強くなりたい一心で」こんなような内容を覚えていて、それが励みになっていた。バイトが終わった後、23時半頃から走った時、スコット・モリーナと同化していた。

 

 インド語科でヒンディー語を学び、今後の進路を考える2年生時の夏休みに初めて海外へ行った。行先はアメリカ。目的はトライアスロンの大会出場。1カ月ほどの滞在中にバイク・ランのデュアスロン(その当時はバイアスロンと言った)1レース、トライアスロン2レースに出場。当時の国内メジャー大会(特に宮古島と琵琶湖)は、経験者でないと出るのが難しく、「出してもらえないのにどうやって経験積むんだ」と何とも言いようのない中途半端な環境にあった。トライアスロンアメリカが発祥の地、その本場アメリカでレースに出るのも有りかなと考え、情報収集に奔走。今ならインターネットでその場で検索だが、当時(1986年)は海外の雑誌しか思い当たる情報源がなく、早速本屋さんへ向かう。その頃住んでいた渋谷には、三省堂と大盛堂、紀伊国屋書店という大型書店があり、海外の雑誌を扱っていることは知っていた。その中の大盛堂(西武デパートの向かいにあった)はマニアックな雑誌も多く、関連するものを含め「トライアスロン」「トライアスリート」「ウルトラスポーツ」「アウトサイドマガジン」を購入、確か1冊1500円~2000円くらいしたと思う。レース情報からいくつかの大会をピックアップして、手紙でエントリー用紙を取り寄せた。きちんと返送してくれた(返信用切手は入れていたか覚えていない)大会パンフレットは、見ているだけで夢が膨らむ。その中で最も興味を惹かれたのが、「アラバマダブルアイアンマン」ハワイのアイアンマンの2倍の距離を走るレース。しかもスイムは海じゃなくて沼?池?のよう。いつか出てみたいレースの一つになった。(結局出ることはなかったが)

夏休み期間中で、バス移動可能な範囲で、いくつか候補を上げて、最終的に選んだのが、東海岸バーモント州「スティーマントライアスロン」(ハーフアイアンマン)、カナダモントリオールのバイク80km+ラン20kmのバイアスロンマサチューセッツ州ケープコッド「ケープコッドエンデュランストライアスロン」(アイアンマンディスタンス)。この3大会。トライアスロンが盛んに行われていたのは、カリフォルニア州サンディエゴ辺りの西海岸だったが、日程と大会の距離からこの3つに決めた。アイアンマンディスタンス(*トライアスロン発祥の地ハワイアイアンマンの距離:スイム3.9km・バイク180.2km・ラン42.195km)の大会にどうしても出たかったので、ケープコッドの大会を基点に計画、決定した。とは言え1カ月あまりの期間に過密なスケジュールだし、そもそもそれまでにトライアスロンの経験は、指宿トライアスロン大会(オリンピックディスタンスS1.5km・B40km・R10km、その頃でいうショート)しかないのに、やれると確信していた。妙な自信は、初レースの指宿での感覚由来。とっても偉そうに言うと、周りの経験者たちが凄い人たちと思っていたのに、案外そうでもなかったから。スイムでは出遅れたけど、バイクとランは追い抜くばかり、結果が9位。これなら俺行ける!と感じていた。

とは言っても、自転車はともかく、正式にフルマラソンを走ったことはなく(日本一周の途中、利尻島一周完歩53km?をほぼ走って4時間台で回った経験はあった)、スイムの4kmは未知の世界で、計画的な練習が必要だった。まずフルマラソン大会にエントリー(つくばマラソン)、高井戸スイミングに入会、柏バイアスロンにもエントリーした。語学院での勉強も有り、毎日充実した日々を送る。

ゆっくり走れば速くなる

ゆっくり走れば速くなる

トライアスロンを本格的に始めた頃のバイブル。後のマフェトン理論に通じるものがある。

<続く>

にほんブログ村 自転車ブログ ロングライドへ

PVアクセスランキング にほんブログ村

櫻井要のオーストラリア横断日記