昨日の続き、栄養のこと。
「何を食べれば?」
アルボムッレ・スマナサーラ氏の講演記録から抜粋↓↓
照明に例えています。「光っている電球には、絶えず電気が流れている。その電気の流れが途切れたら、光も消える。私たちの「命」はこの光のようなものだ。」そして、「命とは儚い(はかない)もので、常に他のエネルギーで支えておかなくてはならないもの」と言っています。
「命」の定義を、「命というのは儚いものであり、いつでも支えてあげないといけない、終わりなく支えてあげなくてはいけないものなのです。ほっとする瞬間はありません。」と説いています。それを理解した上での「何を食べれば?」になります。いくつか紹介したいと思います。
①肉体を構成する物質に合わせて決めなくてはならない。
簡単に言うと、犬も人間も身体に「炭素」は必要ですが、身体が違うので、それぞれ違う物質を通して補うということです。
②考えなくても、研究しなくても、生命は何を食べればいいのかわかっているのです。
「何を食べればいいのかと頭を悩ます人が絶えないのは、人間という種は頭がおかしくなっているからです。」と述べています。
③形に合わないものを拒否します。場合によっては身体が壊れて死ぬことにもなります。
形に合わないものが入ってしまうと、それは拒否します。だから我々はいろんな草を食べますが、一部の草だけなのです。そこら辺の草を取っては食べません。食べて死ぬわけではなくても、何となく嫌なのです。そんなものより「キャベツやレタス、ホウレンソウを食べます」なぜかというと、そこら辺の草は微妙に形が合わないのです。要は「人」の形に合うものをなんとなく摂り入れるようにできている、ということです。
抽象的な表現ではありますが、例えば「1日にたんぱく質は体重1kgにつき2g」とか、一日に総摂取カロリーを2000キロカロリーにしましょう」とかいうのより、僕には合っています。(管理栄養士の献立は、飼育されているみたいで、好きではないです)(つまり嫌い)
感覚を研ぎ澄ませ、「何を」「どのくらい」食べるのか、決めれば良いと思います。
この青虫くんは、玄関先のシークワーサーの植木にいます。柑橘系の葉っぱしか食べません。鉢植えの葉っぱ、丸坊主にしてくれるほどの、大食感です。いずれ蛹になって、羽化して蝶になり飛んで行きます。そしてまたこの鉢植えに、卵を産みに戻ってきます。「命」は、こうして延々と繰り返されて行くのですね。